両者の違いは興味深い
感情では抽象的でわかりにくいので、ここではひとまず、現代人になじみ深い”怒り”を例に挙げてみる
怒りとは、自分が不当に扱われたと感じた際に発生したりする
そして、行き場のある怒りは単なる感情の流れであって、感じる不快感は比較的少ない
ただ、行き場のない怒りは少し違う、苦しいものとなる
もし、自分が怒っている相手がいつまでたっても不貞腐れていたら、不快に思うだろう
それはつまり、自分の怒りが相手にうまく当たっていないと感じるからだ
相手が不貞腐れている。つまり、怒りを受け付けていない。だから怒りがはけ口を失って溢れる。しまいには暴力によって強制的なはけ口を設ける
そこまで至ることもある
これがはけ口のない感情
それを解決する概念に敵討ちがある。自分の中に怒りを留めるとストレスが溜まってしまうからはけ口を求める
敵討ちには意味がないというような声を聞いたことがあるかもしれないが、当の本人には大いに意味があることだ
はけ口があるのとないのでは天と地ほどのがあるからだ
復讐は何も生まない。は半分正解半分間違いで、何も生まないのは確かだが、苦しみを紛らわすという点からいうと本人の満足を生み出す
だから半分正解半分間違いだ
そして、この心理プロセスは現代のSNSにも見られる
先日、フェミニストに対して怒っている人をツイッターで見た
そして、それに共感するように反応がたくさん来ていた
ただ、その場にフェミニストはいなかったようにも見える
少なくとも、そのツイートに反応した人は、実際にフェミニストの挑戦的な発言を目にしたわけではないだろう
つまり、実際にはいない、虚像に対して寄ってたかって怒っていたのだ
これこそが現代のSNSの生んだ一つの負の連鎖なのではないだろうか
フェミニストのような、批判されやすい存在によって人々がそれに反感を抱く
その反感は怒りとも似ている。その怒りのような反感は人々の中で生まれる
ただ、実際に彼らはフェミニストを目にしたわけではないのでそのはけ口は見当たらない
それでも人間ははけ口を求める。同じようにフェミニストを批判しているツイートにいいねを押したりするわけだ
出口やはけ口のない感情は苦しみを生むから、都合のいい虚像をはけ口にして人はストレスを発散する
そうして肥大化した虚像は人々の目に留まり、新たな反感を生む
その繰り返しでSNSは回っている。負の連鎖だ
そして、一連の流れは僕にも当てはまるのではないか、とも思う
最近はこういったことを言語化して分析できるようになったから自分を律することができるようになってきたが、やはり、僕も一つの魂なわけで、感情のはけ口と言うものを自分の中に知らず知らずのうちに作っていた
大学がその最たるものだ
僕は学業がうまくいっていなかった
僕に過失がないのは言うまでもない。それを踏まえたうえで言うが、事実。成績は学科で一番悪いくらいだ
その結果を大学のせいにして批判することにより、自分の学業が不振という状況を正当化し、気持ちを紛らわしていたのだ
自分のせいにすると受け止められないから大学のせいにしていたのだ
あとは、僕はよく、神のせいにする
顎関節症もハゲも、神のせいにしている
物理的なことを言えば、日々の運動不足などが理由なのかもしれないが、その運命さえもひっくるめて神のせいにしている
これは、顎関節症とハゲの苦しみを紛らわすために神に向かって投げつけているだけではないだろうか、
そうして人間は苦しみを転嫁する
愚痴も陰口も、
宗教もそうだ。祈るという行為がいわば転嫁であって、自分を第三者とすることによって苦しみから遠ざける、
それは人間というくくりではない、もっと本質的なレイヤーでの話なのかもしれない
水が低いところに流れたりするように、”怒り”という感情は本来、どこかに流れるものなのかも知れない
そういった感情はモラル、匿名性、法律によって行き場を失った
そして、技術の発達とともに感情の数や量。はけ口とそれをふさぐ要因も全て肥大化し続けている
たくさんの幸福と不幸を受け付ける巨大なはけ口とそこを詰まらせるたくさんの規律
だから現代人は見えない敵と戦っている
加害者がいないのに被害者があふれる社会
それが文明と言うものなのかもしれない
だからどうした
別に、感情のはけ口を作ること自体は悪いことではない
そもそも、アブノーマルなイベントが起こらない限りは感情とはけ口はセットになっているはずで、どちらか一方が生まれるということもなかった
その点考えると、文明人が自らの感情にはけ口を求めるのはもはや本能だ
だから、 感情のはけ口を作ること自体は悪いことではない
ただ、それがエスカレートしたら話は別だ
例えば、自己顕示欲求は本能だが、過度な自己顕示欲求はモラルに反する
これは、過度な自己顕示欲求自体がモラルに反するのではなく、それに誘発された行動がモラルに反するということだ
性欲自体は問題ではないが、過度な性欲はモラルに反する行動を生む。と言うのと同じことだ
これらと同じように、感情のはけ口を求めるのは別に悪いことではないが、ただ、それによって暴力のようなモラルに反する行動が起こってしまっては話は別で、明らかに模範的ではない結果となる
これは人間として戒めるべきだと思う
つまり、感情のはけ口を自分が求め、それに対する解決策を自分が取ろうとしたとき、その解決策が果たして人道的か否かを逐一判断する必要がある
これが人ができうる最善の生き方ではないか、
と感じた
P,S,
善い生き方を実践していると思っているのに、こんなにも一瞬一瞬が苦しいのはなぜだろう
今もあくびができなくてうずうずしている、目が乾いてこれ以上長い文章は書けない
それと、文中にあるフェミニストについて、正確に表すならフェミニストの出来損ないだ
回避可能な災難を性別のせいにして匿名社会に発信する。そういうものはフェミニストでもフェミニズムでも何でもない。いい歳こいて駄々をこねているだけだ
そんな始末の人間はフェミニストとは呼べないだろうが、ここではわかりやすさ重視で単にフェミニストと表現した
ただ、真にこの問題に取り組むフェミニストとその出来損ないは全く区別されるべきものであるということはここで断っておく
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