逆ではないだろうか
原因があって結果がある。というのはすべての大原則で人類はそれを疑おうともしない
それは世界と言う根本的な存在においても同じで、すべての現象には原因があるし、過去があるから未来がある。発生があって終焉がある。物理法則があって世界がある。
それが自然だと思い込んでいる
ただ、本当は全て逆なのではないだろうか、
結果があって初めて原因が生まれる。未来があるから過去がある。終わりがあるから始まりがある。世界があるから物理法則がある
つまり、ゴールだけが最初にあって、そこに至る道は運命が勝手に形成する。ということ、
この世界の形に当てはめていうならば、神と言う名の最上位概念があり、その概念が想像した世界に向けて、辻褄を合わせるような道のりが我々の共通意識の中で自然に生まれる
ということだ
この考え方が示すことは、まずこの世界が思った以上に抽象的だということ、
この世界に見られるすべての物質や現象はもれなく、僕らが観測したから初めて生まれるということになる
つまり、存在など最初から無い。僕らがそこに在ると感じることで初めて在ると言える。僕ら目線で、
そして、物理法則も古代の地層から出てきた化石も。すべては人類が観測する今を説明するために、運命ないし人類の共通意識が勝手に用意したものに過ぎないということ
さらに言えば、人の幸福も不幸も、すべては最上位概念が世界の均衡を願っていることから起こる現象だということ、
均衡を望まれた世界は自然と均衡を保とうとする
エントロピー増大の法則や生態系のバランスのように
だから、幸福と不幸という相反する現象が僕ら魂の中に存在し、それがアメとムチとなって僕ら生命を均衡に保とうとしているのではないだろうか
ただ、これだけが正解ではない
この世界は抽象的であるから、そうとも言えるが違うともいえる。といったような、ある種のシュレディンガーの猫的な不安定さを持っている
そしてそれを観測して可能性を固定することはできないだろう
なぜなら世界に限りはないから
もし人類がこの世界の果てを観測してすべてを理解したという結論に行きついたとしても、それが本当にすべてだとは言い切れない
人類含めこの宇宙に存在する生命体が一丸となって何千兆年研究したとしても絶対に確証を得ることはできない
まるで、数字が無限に続くように、可能性は無限に続く
だからこの世界の形を固定することができない
だから、こんなことを考えることは無意味だ
強いて言うならば、僕がこう考えればこうなるし、誰かがそう考えればそうなる
世界の形は思想の数だけ存在する
ということだ
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