究極のメタバースを構築するうえで必要となるであろう概念

自我( 魂 )を構成する最小単位は印象ではないだろうか

人間の自我は印象の集合で形成されている

例えば、

“あの時の景色は思い出せるけど紙に書いてみろと言われたら完璧な再現はできない”

という経験があると思う

これは、あの時の景色は脳内に印象としてあるだけであって、それは画像のように具体的な情報ではない

ということだ

思い出すという行為は、昔見た景色を画像として脳内で構築するわけではなく、昔見た印象を脳内で思い出してそれを再度知覚しているにすぎないということ

そして、それは視覚に限らず、聴覚でも同じことがいえる

例えば、残酷な天使のテーゼをBzの稲葉さんが歌った場合、どういう音になるのか、

というのは、Bzの稲葉さんと残酷な天使のテーゼ、両方知っている人であればなんとなく想像がつく

ただ、それは脳内でmp3のように具体的な音源が生成されてそれを知覚するということではなく、残酷な天使のテーゼと、Bzの稲葉さんの声、それぞれの印象をなんとなく同時に知覚して実際に聞いている気分になっている

というだけのことな気がする

つまり何が言いたいかというと、

“魂が触れるすべての情報は印象という最小単位にまでかみ砕かれて、そうして初めて知覚したり記憶したりしている”

ということではないだろうか

そして、これは人類の最終到達点。究極のメタバースでは常識中の常識となるだろう

メタバースが進化すると人間は体を捨てて新しい世界の住民となるかもしれない

これを究極のメタバースと呼ぶこととする

究極のメタバースではもはや、言語や3DCG、音などは意味をなさなくなる

なぜなら、人間の魂は印象をもとにすべてを知覚しているから、

3DCGや音というのは、人間が世界に対する印象を目や耳から取り入れるために世界をデジタルデータで扱いやすくしただけのものであって、

目や耳の制約から解き放たれた究極のメタバースではそれらをいちいち作ることは単なる2度手間になるだけだ

目や耳などで観測するという行為はいずれ茶番となる

だから目や耳のフォーマットに合わせた情報を作る必要もない

具体化することは魂がそれを知覚するうえで必ずしも必要ではないということだ

ここまでを理解することができれば、この世界が仮想現実であることに何の疑問も持たなくなるはずだ

よく、”この世界が仮想現実だとしたら、この世界の原子、その中の中性子、陽子。それらすべての運動をシミュレートする、最強のコンピューターがあるのか?”

というような疑問を抱いている人がいる気がする

これが世界シミュレーション仮説において一つの課題となっている事柄だろう

ただ、僕の考えるような、”人間の魂は世界を印象の集合で知覚している”

という点を踏まえれば、たとえ全世界の全原子をシミュレーションするにしても、人の脳みそ一人分で十分に事足りることを理解できるはずだ

巨大な砂嵐のシーンを目の前にして、砂の一粒一粒をシミュレートする必要はない

巨大な砂嵐がある。という印象だけを脳に送ればいいだけの話だ

それはおそらく、波のようなものなのだろう

印象の正体は波、アナログ量だ

……話は少しそれるが、この世界を究極的に分けると、”神が作ったアナログ、量”と、”人が作ったデジタル、数”に分けることができる

最初から存在するものはすべて量で、それを人間が解釈するために数という名前を付けて扱い始めたからだ

そこから察するに、印象というのはこの世界の根本であるからおそらく、印象は波。ベクトルなのかもしれない

そう考えると、究極のメタバースにはベクトル計算機で処理するアナログベースの世界となる気がしてならない

波の集合で人間にすべての世界を知覚させることができる

世界を構築するには、僕らが思っているほどの高度なシミュレーションが必要になることはないのかもしれない

……ちなみにだが、

人がこのことに気づき、究極のメタバースを研究、構築するにあたって必要になる印象を人間がストックする際、AIが大活躍する気がする

この世界を知覚する人間の脳内で何が起こったのかをAIが常に観測する

脳波、電流、個人差なども含め、大多数の人間目線から見た膨大な景色を印象としてストックする

それを処理するのにAIが必要になるだろう

まとめ

究極のメタバースを実現するためには……、

人の自我が印象の集合体であることを理解し、

その”印象”をストックするためのAIが発達して運用を開始し、

世界を表現できるだけの印象を蓄え、それを脳内に直接送りこむ技術を発達させ

人間たちがその世界にダイブしていく

というフローで進んでいく

必要となるのは印象を扱うノウハウ、アナログベースのベクトル計算機、脳とベクトル計算機をつなぐ技術

くらいだろうか、

世界が無限に連なっている、無限世界理論。

ここで一つ気づいた

思考を巡らせた結果、究極の世界はアナログベースだという予測に至ったが、それはこの世界と同じだ

なんだか戻ってきた気分だ

有名な思考実験に”アルキメデスの矢”というものがある

これは確か、矢が飛んでいるとき、今この瞬間の矢の位置と次の瞬間の矢の位置、さらにはそのちょうど中間での屋の位置、さらにはその中間……と、

屋の位置が無段階に進み続けていることに対する思考実験だった

少なくとも僕はそう理解している

時間は無段階で、魂は情報量で、すべては無段階、デジタルではなくアナログ、ラスターではなくベクター、数ではなく量、

というのがこの世界だというのは誰もがなんとなく理解しているだろう

そしてこれは、究極のメタバースと同じ世界の形だ

この世界に神がいるとしたらそれは、神の世界でこの世界という名のメタバースを作り出したエンジニア、アーティスト、もしくは法人格のようなのかもしれない

そう考えると、究極のメタバースとは人間が神になった世界だと断言できる

今僕らがいる世界と遠い未来に僕らが作る究極のメタバース、

2つはフラクタル構造の関係にあるのかもしれない

この世界はスタンドアローン状態なのか、

無限に連なる宇宙(メタバース)はすべてスタンドアローン状態だ

つまり、誰かが管理しているから世界があって、その管理者が電源を落としてしまえばその世界も消え去る

ということではないということだ

もし電源を落として宇宙が消えるようなことがあるならば無限に世界が連なることはないから、

だから究極のメタバースを作るという営みにおいて、どこかでスタンドアローン状態を生み出して現実世界とメタバース世界を完全独立状態にする必要がある

ということなのだろうか、

もしかしたら世界そのものを使って作る”何か”なのかもしれない

ただその”何か”は2022年にこの文を書いている僕にはいまだ不明だ

ここから先は遠い先の未来のエンジニアたちに託すしかない

……ということで先に進む

このスタンドアローンの状態についてもう少し考えてみよう

具体的にどういった状態を指すのだろうか

大きく分けると2種類、

電気的、エネルギー的に独立しているが、世界としては独立していない。親の世界が消滅すれば子の世界も消滅する

という場合と、

電気的、エネルギー的、そして世界という概念的にも独立している、親の世界が消滅しても子の世界は消滅しない

という場合が考えられる

まず前者の場合、

一見、矛盾しているようにも思える

無限世界理論が正しいと仮定するならば、親の世界の存続に依存する世界間の構造では無限に続くことはないはず、どこかで消滅して連鎖的に世界が消滅していくはず

と思う人もいるかもしれない

ただ、それはおそらく間違いだろう

そもそも、”世界が消滅する”ということ自体に矛盾が生じているという可能性があるからだ

ここからいえることは、この世界が無限に続いているという時点で、世界が消滅することはどんなことがあってもあり得ない

という結論だ。

対して後者の場合、電気的、エネルギー的、そして世界という概念的にも独立している、親の世界が消滅しても子の世界は消滅しない

という場合、

この場合は無限世界理論とは呼べないが、いかなる状況でも今僕らの世界があることに対する説明がつく、

僕らがいる世界の一つ親の世界、神の世界はもう消滅しているかもしれないが、完全な独立状態、スタンドアローンの状態のため僕らの世界はこうして今も動き続けている

ということが想像できる

……結局スタンドアローン状態とは何を指すのだろうか、

それは、世界が消滅することがあり得るかあり得ないか、という問いと対応しているのか?

それとも、究極のメタバースとは完全なるスタンドアローン、一種の精神世界的なものなのだろうか

高度に世界が定義されたことでその住民たちが世界を観測し始めて、その観測し始めたという既成事実が世界となってその住民たちに観測されて……というループがスタンドアローン状態なのだろうか、

ここから何かわかるか?

よくわからないが一つだけわかることがある

これをいくら考えようと大学の単位はもらえない、お金も稼げない、健康にもなれない

髪が生えるわけでもないし顎が開くわけでもないし目がよくなるわけでもない

ということだ

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