たとえば、僕はよく、命もとい魂が数ではなく量だと言っている
退社するたんぱく質が活動するにあたって触れてきた情報量が自我となるからだ
だから魂は量だ
そして、量には最小単位がない
だから、その辺の石ころにも魂は宿っている
すべてに宿っているものだ
そして、量を数にするのに必ず必要なのが仕切り値だ
僕にはこの概念が薄いのかもしれない
例えば、上記の生命の話以外に、僕はよく、人間は連続的に絶えず死に続けていると言っている
これは、人間というのは周りの環境から影響を受け続けていて、人格とは周りの環境のみから影響を受け続けるという前提条件のもと、その環境が絶えず変わり続けるという過程から得られる結論だ
人間を”周りからの情報量の渦による自我”と仮定するならば、その周りからの情報量が絶えず変化するこの世においては、常に死に続けているということだ
ただ、これに疑問を持つ人も多いだろう
なぜなら、人が死ぬというのは生命活動を停止するということであって、生命活動を停止しない時点で死とは呼べないのではないだろうか
という疑問を持つからである
ただ、僕はそうは思はない
なぜならそれは、生命活動の停止とはたんぱく質が代謝を停止。もしくはたんぱく質自体が消失するという、物理世界におけるイベントであって、精神世界、情報世界の話ではないからだ
もちろん、肉体が朽ちることは僕も死だと思う
そして、絶えず死に続けるの死とは別物だとも思う
ただ、
いや違う
死とは終わりだ。そして、僕が言っている別の死は変化だ
つまり、僕が言っていることが正しいとするならば、死は変化だということになる
つまり変化は死。だから変わり続けることが死に続けることだと思っているんだ
それは本当にあっているのか?
もはやこれには正解はない
なぜなら日本語には限界があるから
もはやそれに名前を付ける必要はないのかもしれない
それだと不便だ
ということで人間は名前を付ける
肉体の死と精神の死
これが今のところ一番しっくりくる分類だ
物質世界と