備忘録

卒論が終わらなくて病んでいた

今も実際病んでいる気がするが、つい先日、デザインが一応終わり、自分での作業に入ることができた

だから今はどん底というわけではない

終わらない不安と後遺症に悩まされてはいるが、今のところはたぶん、大丈夫だ

この体験をこの記事にまとめる

せっかくここまで病んだのだから、覚えているうちに書き記す

まず、時系列的にまとめると、

2022/10に入った頃から僕の精神状態は急激に悪化した

それ以前から2週間ごとに研究室があり、そのたびに憂鬱な気分になったりはしていたが、そのころはいずれにせよすぐに回復して仕事とかもしていた

ただ、10月に入った頃から残り時間が少なくなったことで焦りはじめ、どうしようもなくふさぎ込むようになってしまった。

仕事もお休みをいただいた

最初のころは研究室の帰りは電車の中で一人泣いたりしていた

ヘッドホンで音楽を聴き、泣いていることを悟られないように下を向いて寝たふりをしていた

家に帰ってもつらく、一人でふさぎ込んでただ卒論のことだけを考えていた

部屋で泣いたりもしていた

ただ、10月中は眠れない、震えが止まらないといったようなことはなく、ただ静かに鬱になっている感じだった

精神を安定させるために、必死で卒論に取り組む

卒論に取り組むことが前に進むことだから、卒論以外のことをしているとストレスを感じるような思考回路になってしまっていた

ほかのことをしていると罰が当たるような、そんな気がしていた

……そうして11月を過ごし、12月になる

このころが一番つらかったかもしれない

研究室の帰りに泣くのは当たり前となり、踏切脇でも電車に飛び込みたくなって涙が出たりした

特急の通過待ち、隣のホームを猛スピードで通過する特急を眺めていたら泣いてしまったりもした

こんなにつらくても死ねない自分が情けない

いろいろな感情が複雑に絡まり、ぐちゃぐちゃになって泣いていた

そんなときに家族に話した

きっかけは、人生で初めて、一睡もできなかったことだ

心臓が高鳴り、冬なのに汗が出て、熱い

それを家族に話し、同時に研究室で辛いという気持ちも話した

それからは家族の温かさに支えられることになる

両親は僕に、大学を辞めてもいいと言ってくれた

そして、心療内科の予約を取ってくれた

もしあそこで大学を辞めるなと怒られていたら、僕は死んでいただろう

顎関節症でただでさえ地獄の日々を生きているのに、大学で居場所をなくして家でも居場所をなくす

居場所がなくなった人が自殺を選ぶ

そのことを改めて感じた

ただ、家族は僕が大学を辞めることを認めてくれた

それだけでなんだか半分くらい、肩の荷が下りた気がした

前々から僕は自分に、”僕は手に職を付けたから大学なんてもういらない”と、自己暗示して安心しようとしていた

ただ、心の奥底ではそれに対し疑問を抱いていた

大学という命綱を留年してまで、5年もかけて、中学校から私立に通わせてもらってまで、あと2か月ほどで得られるのに、

監督になるための道も、お仕事も、自主製作アニメも諦めて取り組んでいたのに、

それを寸前で捨てることにこの上ない不安が付きまとっていた

もしかしたらその不安で身動きが取れなくなるのではないのか、

大胆な生き方ができなくなってしまうのではないだろうか、

そう思っていた

ただ、その気持ちも家族に話して理解してもらえた

親からの許しをもらえたという事実だけでなんだか安心できた

とはいっても、卒論は全く進まない

とうとう物理的に不可能な段階が近づいてきて、不安もピークに達した

夜、卒論を忘れるためにアニメを見ていたが、それでも僕の中から卒論は消えなかった

ふと思い出してしまい、一気に血の気が引いて手先が冷たくなり、冷や汗をかいて震えが止まらなくなり、親を電話で呼んだ

その夜も案の定、眠れなかった

普段は夜中、トイレに行ったりはしないのだが、流れを変えるためにトイレに行ってみたり、スマホを少しいじってみたり

いろいろ試したけど眠れなかった

その頃は、レイアウトの図形の中心点が合わずに苦しんでいる夢を見たり、

僕が作ってるプロダクトに自分が入っている夢を見たり、

大きなクモに襲われる夢を見たり、

いろいろな悪夢を見て、不安で目が覚める

そんな日々だった

結局、妹が睡眠薬を買ってきてくれたので、それを飲んで寝たりもした

人生初の睡眠薬だった

少し目の奥が痛くはなったが、眠くはなった

夜、薬を飲んだ後。気持ちを落ち着けるために僕はリビングでアニメ制作のドキュメンタリーを見ながら、

両親と話した

親はいつもリビングで一緒にいるような人ではないが、その日は2人ともしきりに僕に話しかけ、僕の気を紛らわそうとしてくれた

その日は少し眠れた

ただ、翌日は早朝、不安で目が覚める

孤独な一夜を過ごすと不安になるのかもしれない

カーテンの閉まった薄暗い部屋で、親が起きるのを電気毛布のぬくもりの中で待つ日々だった

一人で起きると不安でどうしようもなくなるからだ

その頃の朝は力が全くでなかった

だからカーテンを開ける力も、雨戸をあける力も、暖房のスイッチを押す力もない

スマホを持ち続けるわずかな力さえもなかった

だから僕はニュース番組を眺めていた

ニュース番組はとても安心する

アニメよりも安心したかもしれない

なぜなら、画面越しに見る大学がない世界の出来事を見ることができたから

僕を苦しめる卒論が無くても世界が回っている。

その事実を確認するだけでも安心した

ウクライナ侵攻のニュースなんかをよく見ていた

あとは、窓からのぞく外の光を見ると落ち着く

それはただ単に、日の光を見ると落ち着くということだろう

12月初めは夜というだけで不安だった

昼間は心臓が高鳴り、冷や汗をかき続けるような時間だったが、夜は不安で押しつぶされるような時間だった

僕はものすごく複雑なものを作っている

椅子を作るにも人の寸法を調べて、参照してサイズをレイアウトに落とし込まないといけないし、

それを音響特性を加味して動かし、モニターを付けなければならない

それらすべて、根拠が必要だ

その根拠を集めるだけでも大変だったし、アンプ、電源、PC、あらゆるパーツを狭い空間に敷き詰めないといけない

それが一つでもめり込んだら一発アウトだ

モチーフは球

球の滑らかな曲線を頭の中で全力でイメージし、針の穴に糸を通すようなレイアウトをしないといけない

不安はそれがそもそも終わるのか、そして、どこかで破綻し、単位が下りなくなるのではないか

という不安だった

おまけにそれは共同研究だ

教授は二人いる

共同研究者もいる

一人であれば僕が大学を辞めれば僕の責任。

それだけだから気楽だったが、

共同研究だと、共同研究者、双方の研究室に迷惑がかかる

そのプレッシャーに耐えられなかった

肝心のデザインも完成しない

教授はいい人で、実績もある

だからこそ僕は辛かった

教授が酷い人間だったらそれを愚痴り、自分は悪くないと言い切れる

ただ、それができない研究室。教授はいい人で、こんな僕にもずっと教えてくれる

それにこたえられない僕がみじめで、自信を失い。精神を病んだ

僕は気持ちで創作するタイプの人間だ

デザインも例外ではなく、気持ちが高ぶっているときは良いアイデアが出る

今までの仕事も、大きな仕事だとまず、作業BGMから決める

そのBGMで気持ちを上げてから作業をすることで最高の結果を得られるからだ

僕は気持ちで創作する人だから、余裕のある気持ちこそが僕の原動力だった

ただ、今回の卒論は全く持ってそんなペースでは進まなかった

序盤で指摘され、そこからペースを崩し、ずるずると半年ほど悩み、

気持ちが落ち込んでアイデアが出なくなって、また気持ちが落ち込み

の悪循環に陥ってしまったのだ

だから、本来の力を僕は発揮できなかった

それ以外にも、僕がそもそも頑固で、コンセプトを決めてデザインをする。というプロセス自体を認めていなかったというのもある

これは大学の授業で習ったことだ

つまり、大学で習ったことを不必要だと判断し、無視した

そしたらそれを使う研究室の卒論でつまずいてしまった

ということだ

今となっては、このデザインをする上でのコンセプトについては必要性を理解することができた

これには研究室に行った甲斐があったと思う

今後、胸を張ってプロダクトデザイナーを名乗れる。とまでは思ってはいないが、

少なくとも。半年前よりはプロダクトデザイナーに近づいた気がしている

あとは、研究室で学んだことに関して言うと、今。この文章に書いてあるような地獄の体験をしたことだ

僕は監督になりたい

映画監督というのは経験が豊かであれば豊かなほど、引き出しが多ければ多いほど、良い映画が作れると思っている

その点言うと、今回のどん底の体験は大いに役に立つ

この文章も、そんな体験を形として残すために書いている

人は病んだ時どうなるのか、どんな気持ちなのか

そして、そこからどう立ち直るのか、家族の温かさ、愛

そういうものに関して知ることができたことは今回の鬱の大きな成果だ

鬱になっている最中も、その事実に救われた

僕が映画監督を目指していなかったら、早々に死んでいたかもしれない

この体験は数年後の僕にとって大きな価値になる

それに気づけたからこそ、地獄に意味を見出せた

それに家族の理解も相まって僕は何とか生きることができた

その事実だけで研究室に行った価値、大学に入学した意味があった

そういう気がする