たまに、天才と呼ばれる人がいるが、その力の根源をとことん突き詰めた先にこの、学習のエコシステムの確立。があると感じている
たいていの人間は身の回りにある知識を抽出できない
学校に行って渡される教科書という媒体を、ガイドである先生に詰め込んでもらう必要がある
だから世の中には学校というものがあるわけだ
ただ、この学習のエコシステムのマインドがあればそういったものもほぼ必要ない
学習のエコシステム。とは、今この記事を書くために適当に考えた名だ
要するに、学習という行動を他の力に頼ってするのではなく、完全に独立して、自発的に行うこと、
そして自ら学習したその成果を次の自発的な学習に利用する
ということだ
これができるかできないかで人間というものは大きく変わってくる
まるで、ガソリンエンジンと原子力エンジンの馬力の違いのように
世の中にある作品。成果、仕事、名声、勲章
すべては先人たちの知識や経験に基づき評価されている
そして先人たちの知識の由来は歴史と自然由来の物のみで構成されている
歴史というのはその多くが言語化されている。教科書というのも先人たちの残した歴史、履歴だ
先人たちの成果をわかりやすく、知識と公式のみを抽出して飲み込みやすいフォーマットにしてストックしてある
それが紙であれ映像であれ音声であれ、それが知識と価値の源、教科書だ
ただ、その価値は何も教科書の中にだけあるものではない
例えば、当たり前のように今僕らが見ている世界には、当たり前のように無限の知識と価値の素がたくさん漂っている
それは目や耳と言った五感により脳にインプットされ、僕らはそれを解釈することができる
その解釈への取り組み方に。学習のエコシステムを確立できるか否かの違いがあるのだろう
何かの光景を見たときに。それをただ単にきれいだとか汚いだとかの感想で片付けてしまう人間がほとんどだ
そこから一歩先、”なぜそう思うのだろう”と考える人は少ない
そして、一歩先に進んでも、多くの人はその”なぜ”を適切に言語化できない
ここで、その”なぜ”を言語化できるか否かが学習のエコシステムの境目だ
今見ている景色がなぜ美しいのか、その理由を適切に言語化できる。
ということはそれすなわち、美しいものからその理由を抽出し、言語化できる
という工程を一人で独立してできるということになる
ここまで来たらもう早い。あとはその抽出したフォーマットに別の要素を代入して何かを作ればよいだけだ
半永久的に学習をし、教科書が無くても知識を得ることができる人
そういう人を天才と呼ぶのではないだろうか
それはジャンルを問わず、スポーツ選手でも映画監督でも作家でもビジネスマンでも主婦でもコメディアンでも
すべての評価を人間が行っている限り、すべての営みにこの、学習のエコシステムの考え方をあてはめることができる
だから、先天的にこのマインドがない人がいくら教科書を読み漁ったところで、学習のエコシステムを構築した人にかなうわけがない
〇〇入試だとかは基本的に無意味だし、教科書を崇拝する教育では知識の進化は起こらない
僕は高校の頃から、勉強を教える前に先に勉強の仕方を教えたほうがいい
と思っていた
勉強の本質は知識の吸収であって、その知識の吸収の仕方を子供に教えるのが一番理にかなっている
それに気づくことができないのは基本的に人間の中にこの学習のエコシステムの概念自体がないからだろう
とはいえ、この概念に凡人が気付いたところで、天才になれるかと言われればなかなかそういうわけではない
なぜなら、それに気づかずに生きていた時点で、知識を吸収する素質がないからだ
素質を得るにはまず、周りに知識があるということを四六時中自分に言い聞かせ、自分を洗脳し。人格と性格を改変する必要がある
これができる人は学習のエコシステムを構築することができるだろう
一見こう書いてみると非人道的な修行のようにも思えるが、社会人になるための面接やら礼儀やらと比べれば大したことは無い
将来の日本のためにはこういう、身の回りから価値を取り込めるタイプの人間が必要だ
義務教育の場面にこの概念を説明する一幕を設けてみれば、素質のある天才の卵は早期にスタートを切れる
今の僕にはこうして人目に触れないところで独り言を言うことしかできないが、
いつかはこの概念が多くの人目に触れ、価値のある次世代の日本人が生まれることを願うばかりだ
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