芸術と表現と主張の関係性について考える

芸術とは主張を装飾した物だと思い込んでいる

何かを発信するとき、芸術に一回落とし込んで主張を発信するという手間を人間は大切にしている

なぜだろうか

その理由が今わからない

ツイッターを見ていて思った

政治に熱心な人が頑張ってツイートしている

それは表現でも何でもなく、一切の過程を省いた単なる結果に過ぎないと思った

そして次に、僕はそういう主張をしたくなった時、何か芸術作品にして主張するだろうと考えた

ただ、そこで自分のその思考の出所がわからなくなった

なぜ僕は、主張の媒体として芸術作品を無意識に選んだのだろうか

それは、僕という人間が持つ最も強力な拡声器が芸術だからだ

というのは僕に限った話だ

例えば、何の才能もない人間が自らの主張を発信したくなった時、何を選ぶだろうか

現代ではSNS等、いろいろとインスタントな発信手段があるからまず最初に人はそれを使って発信しようとする

そしてそういう人たちは必ずと言ってもいいほど、不気味なほどの量の絵文字を使っている

もしかしたらそれは表現なのではないだろうか

とも思う

つまり、自分の声を発したいというのは人間なら誰しも持ち合わせた欲望であって、そこで他の意見との差別化を図る必要が出てくる

その差別化を望む気持ちこそが芸術というものの原動力ではないだろうか

そう考えると、芸術に必ずしも主張が混じっている必要はないということになる

いや、それも違うか

なぜなら芸術というのは単なる美しいものを目撃するためだけにあるのではない

創作者とそれを鑑賞する人との間に生まれる主張のコミュニケーションに幸福を感じる

ということではないだろうか

だから何か主張のある作品を鑑賞したときに人は楽しいと感じ、それを解釈する楽しさを得る

そう考えると、芸術と主張というのはセットであるべきなのか

では、主張の伴わない芸術作品はどういう気持ちで理解すればよいのだろうか

例えば、一部の異世界転生系のアニメは自らの優越感、あるいは植民地支配的な快楽を感じることにある

それは主張とは関係ないが、売れてはいるし、見て楽しむ気持ちもわかる

エロ画像のように、快楽の具体化を助けるだけの画像情報に過ぎない

そういうコンテンツと、主張のあるコンテンツが別というのはわかった

前者は幸福に直接的に語り掛けるコンテンツだ

これはいわば、状況的幸福によってもたらされる直観的な価値であって、僕がさんざん、インスタントな価値。と呼んできたものだ

対して後者。主張のある作品から感じられるものはなんだ?

僕がコンスタントな価値と呼んでいたものだ

芸術の裏表のうちの裏。に当たる

主張に触れたときに感じる価値だ

これは、状況的幸福に対応して表現するならば、感動的幸福とも呼ぶべきか

その2つは自分だけで構築される価値か否かともいえる

状況的価値と感動的価値。2つを兼ね備えたものが真の芸術と呼べるということか

この2つは生命を営む上で必ず生まれる価値なので、芸術とはやはり神聖な物ということになる

そう考えると、芸術に主張が伴うことに何ら不自然さは無い

今まで僕は、芸術に必ずしも主張が含まれるべきではない。なぜならそこに生物的な理由がないから、

と思っていた

ただ、今日こうして言語化し、生物の営みと表現。そして主張と芸術にはなにか連動した関係性があるのだとなんとなく知ることができた

……これをしっかりと意識し、物語を考えてみる

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