人は生きる意味をどこに見出すというのだろうか。
何かのために頑張る。それこそが生きる意味ではないだろうか
その何かが欠如していると空虚な気持ちになる
空虚な気持ちにならない人もいる
それは今やっていることに意味が必要だということにすら気づいていないからだ
半自動的にやっている
その意味の必要性を自覚することが第一の成長、スタートラインに立つということ
そして、そこに立つと途端に、空虚な気持ちになる
自分が意味を満たせていないことに対して危機感、無力感を抱いて、立ち尽くす
そして、そこから人は生きる意味を探し始める
ここからは紆余曲折あるだろう
生きる意味なんてそう簡単に見つかるものではないし、生きる意味をこなせるだけのスペックを持った人というのも限りある
そこに至らない人は挫折をしてまた別の生きる意味を見出す
それは慰めに過ぎないかもしれない
ただ、次の瞬間に訪れるのは、違う幸せなのではないだろうか
夢をあきらめ、別の夢を追ったり。子供を作ったり
そういう生きる意味を目の当たりにして、何も生きる意味は一つではないと感じる
むしろ、生きる意味は神から与えられるものではなく、自分で作るものだということに気づく人もいるかもしれない
生きる意味を究極的にかみ砕いて分析するならば、世界への干渉だ
それがどういう形なのかは人それぞれで、その媒体自体を生きる意味だと思われがちだ
楽器をやる、映画を作る、子供を作る
何をするにしても世界への干渉という点で等しい
その世界への干渉を何を通して行うかがカギだ
運良くスタートダッシュを切り、ゴールに向かうことができるのであればそれは素晴らしいことだ
ただ、そのゴールは何も一つではない
そもそも、最初に空虚さを感じている時点で、それは本当にやりたいことではないのかもしれない
自分の意志で始めたことではなかったり、途中でその意志が消失してしまっていたり
だから目的不在のまま走り続ける。それに気づいて立ち止まる
そうして成長するのだろう