人が生きる実感を得るのはいつだろうか、
東京ではもう死も生も手の届かない場所にある
というよりも、見えない場所に隠してしまっている
それは一見幸せそうなことにも思える
死はこの世にある中で一番暗い存在のようにも思えるから、それを見えなくしてしまおうというのは合理的で賢明だ
ただ、それは生き物として間違っているのではないだろうか
死を意識しないことで、生への意識にすら気づけていないのではないだろうか
昔は家で葬式をやった、事件も多かった、病気で死ぬこともあった
戦国時代には人が死にまくったし、江戸時代も治らない病気は多かったし、戦時中はもちろん人がたくさん死んだ
そして現代の日本、自分が命を持っているということ、生き物としての自覚、そういったものを欠いている気がする
というのは僕の意見だ
たぶん、子供を作ったり、親が死んだり、何か災害にあったりすれば生きる喜びを実感できるのだろう
ただ、今の人間にはそういったものが少ない
というよりも、おせっかいにも命というものを隠されてしまったのだから、気づきようがない
そうして人間は苦しむ
生きる意味を生きているという事実ではなく、その先に追い求めてしまっている
それは文明由来の価値だ
そして文明は価値の対流だ
そして価値とは金だ
だから金を一つの指標として人は考えるようになる
自分の経歴、ネットに刻まれた自分の名前、学歴、給料も、すべてが管理されて比較される
老後2000万問題とか言っているが、老後はいつ来る? 少なくとも僕の老後は40年後くらいだ
そして今から40年前は1980年代だ
バブルがはじけるころだ。今はもうはじけて当分経つ
もう少し人は今を生きたほうが良い
今の東京に足りないものは何だ?
それを表現したい
今の東京に足りないもんは生きているという実感そのものだ
魚は捌かないし、人は死なないし、
死なないことに意味があるかのような世界だ
それはおかしい。確かに苦しんで死ぬことはよくないことだが、そこから、幸せ=死なないこと、と決めつけるのはおかしい
自殺はよくないとは思う
ただ、正確にいうのであれば、自殺に追いやる文明が良くないというだけのことだ
自殺とは単なる結果であって、それを招く現況がある
それはなんだ?
体現的なことを言うならばそれは、安易に比較できてしまう文明社会だ
等身大の自分を見れなくなっている
人に追いつけない自分がみじめになり、行き場を失う
この行き場というのが今の社会には少ないのでは?
別に何かができなくても、生きていける
そういう気軽さが東京にはない
島には気楽さがある
日雇いもそうだし、別に高レベルなことを求められていない
そうだ、島には見えるものしかない
すべてが目に見える
命も、死も、やさしさもすべて目に見えて存在する
そういう島だ
そういう島に行った東京人はどうする?
最初は嫌になるだろう
ただのちに、そのやさしさと温かさに気づくことになる
気づいたらどうなる。島に定住してしまうな
それではいけない、人は死ぬんだということを目撃して東京に逃げるのでは
それでいい、何故なら主人公の帰る場所は東京だから
島の人は東京をうらやましがるんだ
島で仲良くなった人に島の話をして、お前は島に帰れと言われるんだ
何故なら主人公は東京のある世界線の人だから、先人が築いたその平和な世界を愛せと島の人は言う
そうして主人公は気づく。東京でも生きれると、
命の形を目撃した主人公は、自分が生きていると知る
そしてそれを誇りに東京で生きてくんじゃないのか?
という物語を書きたい