3DCGや映像などの具体的なビジョンは茶番で、そこに本質的な価値があるわけでないということを僕は今まで考え続けていた
ただ、それに関して少し考えなおしつつあるので、この記事で残しておく
例えば、富士山というものを脳に伝えるために、富士山の具体的な像が必要になるわけではないことはすでに理解しているが、
では、その場における富士山以外の物を伝えるために、印象以外の何かが必要になりはしないか?
富士山を見ている僕の背後に何があるのかを決めるために、具体的なポジショニングが必要になる気がする
印象のような抽象的情報のみで世界は伝えられると考えているが、果たしてそれは本当か?
いや、印象のみで世界は伝えられると直感しているが、それが本当に正しいと言い切れるほどの根拠はない
自分の背後にあるものが何か、つまり、自分がまだ観測していないけど観測可能な領域に何があるのか
それを決定するために必要な情報は抽象的情報のみでは成立しないのでは?
というのが僕の今の疑問だ
そしてもう一つ、
これに関しては疑問ではなく、補足だが、
例えば、AKIRAを誰かと一緒に見て感想を言い合う
という体験をしたとする
この場合、その誰かと意見を交えるためには必ず、AKIRAという、具体的な形を持った映像が必要になる
つまり、僕が今まで話していた、抽象的な印象による情報伝達というテクノロジーは、完全に個人の中で完結する世界でないと成立しないということだ
誰かと何かを共有する場合、その誰かという領域と、自分という領域の間に、具体的な媒体が必ず必要になる
いや、それも必ずではないか
互いの抽象的な領域同士をつなぐコンバーターさえあれば、互いの領域間で印象をやり取りすることはできる
ただ、その場合はいずれ、どこかで話のつじつまが合わなくなるのでは?
それは、両者の間に具体的な像がないので、情報をやり取りする中でそれらがかみ合わなくなるからだ
それを解決するために、両者の情報共有上の法となる、具体的な形が必要になるということか
つまり、具体的な媒体。映画、景色、音などは情報共有上の法と言える
そのルールがあるからこそ、情報共有し、互いが同じ世界を共有できるということだ
そして、僕が唱えていたのは、その法というものを無視し、完全に自分だけの世界を作ろう
ということだ
これにより、最小限の計算で最大限の体験をすることができる
ただし、他人とのかかわりは(おそらく)できなくなるということか
また理解が深まった
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