物語で伝えたいこと、信念のない悪意

一番恐ろしいのは、信念のない悪意では?

自分の身を守るために人に危害を加えるというのは人間社会のあらゆるところで行われている

僕がこういうのを書こうと思ったのは、映像の世紀を見ていて思ったからだ

戦後、ナチスに加担した人をリンチしているドイツ人はそういう人間の汚さの象徴のように思えた

そして次に、この汚さは何もドイツ人に限った話でもなく、世界中の人間、日本の小学校レベルでも起こっていることなのだと思った

だからいじめは絶えない、規模は違えど同じ原理によるものだ

これは、信念のない悪意と呼べる

各々には明確な悪意がなくとも、集団としてだれか特定の人を虐げることが最適解となってしまい、いつの間にか虐められてしまう

つまり、個人個人が逃げるために、少数を犠牲にしようとする働きだ

そういうのは生存戦略としては仕方がない、むしろ賢い選択なのだろう

ただ、人間の高度な知能がそれをエスカレートさせ、おまけに、それを明文化して観測することもできるようになった

なのでいじめという概念が生まれ、戦争という地獄も生まれ、被害者という意識も生まれた

そうして苦しみが生まれる

この、信念のない悪意というのは、集団として元からあった生存本能が知能によって露呈するという、人の欠点、それをかみ砕いて表現した文言な気がしてきた

P,S,

信念のない悪意があるのであれば信念のない善意もあるのだろう

利害の一致による善意は確かに冷たい感じがする

要するに、文明社会というのは信念で動くものではなく、利害関係で動くものだということなのだろう

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