親の仇と仲良くすることはできるのか、について考える

例えば、親友が自分の親を殺したとする

そうしたらその人は親友を許すことができるだろうか

個人的には、許せると思う

というか、許すべきだと思う

これは法治国家だという前提条件のもとという話だが、

許すか許さないかという問いには、罪と罰的な意味での問いか、立場的な意味での問か、の2つが重なっている気がする

そして、罪と罰的な意味での許すか否かはもはや、法治国家において、自分が判断するものではないのでここから除外するとして、

立場的に許すか否か。という問いのみが残る

そして、立場的に許すか否かは、罰を伴わない問いだ

いくら相手を嫌おうと、罰を課すのは司法のもとなので、立場的に許すか否かは完全に当事者の心の中での話になる

ここで、親を殺した親友の話に置き換えると、

法治国家においては、親を殺した親友を許すべきだと思う

なぜなら、殺人に対するペナルティーは司法のもとに行われるものだし、そのあとに残る心理的な恨みは親友が親友ではなく恨むべき人になるという、立場が変わることでなされるものだからだ

僕が先ほど書いた許すべき。というのは、罰を与えないという意味での許すべきだったのかもしれない

何も、心から許そうとは思っていない

事情次第だが、親を殺しても親友のままでいることは許しではないと思う

あくまで、物理的な攻撃を伴なう親の敵というものは発生しないというだけのことだ

では、これが法治国家以外だとしたらどうだろうか

親友が親を殺そうが、法がないので裁きも罰も下らない

なので自分が罰を下す。それが仇というものではないだろうか

つまり、かたき討ちというのは法がない状態で起こるものなのか

いや、そうとも限らない。法があってもその裁きが不十分だと感じた時、物理的なかたき討ちが発生する

かたき討ちというのは強制的な裁きだ

では、そういう言語化が起こらない状態でかたき討ちが起こった場合、どう解釈すればよいのだろうか

つまり、裁きだとかそういう単語は知らない、子供が親の敵を討とうとするさい、その子の中ではどういった感情が渦巻いているのだろうか

それは、以前の記事でも書いたが、今の気持ちのはけ口を相手に求めているということではないのか

親を殺された悲しみを自分で処理しきれないため体を動かす。その動作に明確な動機、罰を与えるという動機が添加されて、敵を討つという行動に繋がるのではないだろうか