スクール☆ウォーズ

スクール☆ウォーズを今見ている

もうすぐ最後まで見終わる頃だ

僕は、若者が何かに一丸となって取り組む成長物語が好きなので、このドラマもやはり、感動した

だいぶ昔の作品ということもあり、現代では考えられない場面、学び多き展開もあった

ここではそれらに関して雑にまとめる

体罰について

現代には体罰を理解する心が足りていない気がする

規制やコンプライアンスによってさまざまなものの肩身が狭くなっている世の中だが、その一環に、体罰に対する考え方がある気がする

例えば、先日。ようつべの低評価が非表示になった

僕はその時も嫌で、ブログで記事に書いたほどであった

僕が危惧したのは、あれによって、ようつべ内での文化の淘汰が一方的なものになってしまう気がしたからだ

文化というのは消費者が評価をして進化していくものだが、その進化の過程に批判が働かなくなったら、文化の発展が偏るような気がした

クリエイターを守るという観点で低評価を非表示にしたのかもしれない。その考えに関しては僕もクリエイターの一人なので理解できるし、うれしいと思う気持ちもある

ただ、その気持ちは規制強化、コンプライアンスによる表現幅の単一化、そして、体罰を嫌だと思う心。つまりは人としての弱さの表れなのでは、と思った

もちろん、行き過ぎた体罰は良くないし、そもそも体罰ではなく単なる暴力みたいな事例もあるだろう

ただ、人間も株価も文化も、すべてポジティブとネガティブのせめぎあいで動いている

そこからネガティブを取り払おうとするのは自分自身すらも制御できる存在であれば必然の流れだ

ただ、それはもとからあるシステムに手を加えるということになる

生態系だって、一つを取っ払えば全体が傾く

人間も同じな気がする。嫌なものを取り払えば幸せになるというのは幸せというものに対する考え方が足らない気がする

その結果、今の人間社会が出来上がった。目先の苦痛を取り払い続けたら、こういう世界になった

その一端として、体罰への不信感がある気がする

不必要な苦痛を与える必要はないが、ただ、多少の体罰は人生経験の一環として認められるべきでは

ネガティブを取り払った先にあるのは、幸福に溺れる歪んだ世界だ

人が3人くらい亡くなっている

物語を通して、3人亡くなっている

それぞれは感動する展開になってはいるが、ただ、やはり3人はやりすぎな気がした

そういう、展開のレパートリーの少なさは「家なき子」を見た時も同じことを感じた

引き出しを増やして、展開の幅を広げたい

その後の展開を先取りした行為

花園での決勝戦前、帰りの切符を破り捨てる展開があった

今夜は先生と飲み明かすという展開を、切符を破るという行為によって表現している

何かの展開が起こる前、もしくは起こった後でも良いかもしれない。その展開を小さなアクションによって伝える展開はいろいろなところで応用できる気がした

何か起こることが大事

これは最低限の話だが、何かが起こるということが大事で、それが起こったという認識が楽しみにつながる

何かが起こるというのは、何でもよい。がれきが崩れるタイミングに粗密を持たせて意識させるのでも良いし、逃げ惑う野次馬の一人が転ぶだけでも良い

そういう、何かが起こったという情報を事細かに入れることで、展開の繋がりに面白さが生まれる

スクールウォーズに限った話ではないが一応メモっておく

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