無痛の社会(構想中)

新年のあいさつもまだですが、

新作アニメーションの原案を検討中なのでまとめます。

無痛の社会について、

1か月くらい前だか、駅のホームで、遊具の下に敷くゴムマットみたいなものの広告を見た

いろいろな売り文句が書いてあったが、要するに、子供が転んでも痛くない!!!!!! というのをアピールしたかったように思う

それを見た僕は強烈に、ディストピアな空気を感じた

失敗学の一つに、重大事故と軽い事故の割合が一定。みたいな教えがあったような、なかったような、よく覚えていないが、確かあった気がする

要するに、何百回の軽い事故が起こると、必ずと言ってよいほど、一回の重大事故が起こる。その割合は一定だということだ

子供が転んで痛いと思うのはそんなに悪いことではない

むしろそれは成長過程に当たり前にあるべき一つの過程で、それを排除してよいわけがない

一回も転ばずに育った子供がいたとしたら、その子は転ぶ痛みを知らないことになるが、それは人間としておかしい

重大事故は必ず起こる

何百回も転んだ子供だったらかすり傷程度で収まる事故も、転んだことがない子供からしたらそれが障害の残るレベルの事故になってしまうかもしれない

小さな事故は大きな事故に備えた訓練であって、それを排除するのは過保護というものだ

昔、小学校に、今思えば危険な遊具があった

縄のネットと上り棒が一体となったような遊具で、頂上まで登ると高台にある校舎の2階の中腹くらいと同じ目線だった

つまり、2階の天井くらいの高さまで登れる遊具があった

もちろん、遊具なので足場も柵もない。

頂上にあるのは直径10cmくらいの鉄のパイプで、そこに座ると校庭が見渡せた

僕はわんぱくなタイプの子供でもなかったので、その遊具でたくさん遊んでいたわけでもないが、

当時は緊張しつつもその遊具に上って滑り棒で降りてきて、みたいな遊びを繰り返していた

それから十年くらいたってからか、久しぶりに小学校の校庭を見てみたら、その遊具はなくなっていた

やはり危なかったのだろう

校庭の遊具だけじゃない。よく行っていた公園の遊具もめっきり減っていたし、

そもそも、今の子供は危険な遊びはしないのかもしれない

前置きが長くなったが、

最近の世の中を見ていると、痛みを排除する傾向が強く出ているので、疑問に思う

もちろん、僕も人間なので痛いのもつらいのも嫌だ

が、それを含めて生きるということだと思うし、それを排除してより良い世界になっていると考える世の中なら、それは生き物として死んだも同然だと思う

痛みというのは何も、身体的なものだけではない。

精神的な痛み。つまり苦しみ、悲しみ、そういうのも痛みだ

現代社会、生きるのがつらい人も多いし、不必要に緊張することもある。

そういう、過度な痛み問題は文明の抱える課題の一つだと思いつつも、

一方で、必要な痛みを排除しているという課題もあると思うし、それは過度な痛み問題よりも言及されていない気がする

最近、次回作の検討をしているが、考えているうちに、自分が伝えたかったのは無痛の社会かもしれない。と気づいた

そしていろいろ考えているうちに、今感じているのは、無痛の社会には罰もないのかもしれないということだ

バツというのは、何かしでかした人に苦しみを与えてそれを抑制する仕組みといえるだろう

つまり、罰には必ず苦しみが必要となる

そうでないと罰は効力を発揮しない

そう考えると、無痛の社会を表現することは、罰が不可能な社会、つまり、罪が存在しない社会な気がした

じゃあ、罪が存在しない社会ってなんだ

罪というのは欲望から生まれるが、それを根こそぎ排除した社会ということだろうか

ただ、欲望というのは生きている限り必ず発生するものだ

だとしたら、そもそも生きている状態で無痛の社会なんて実現しないのでは

そういう人種はドームの中で暮らしている

荒野の中にあるドームだ

そこで外界と一切の交流を絶って暮らしている

ドームの中には一切の痛みはない

死別の痛みさえもない

ドームの人々は死ぬとき、感情をデータ化し、地球の静止軌道上にあるグリッドにそれを転送する

グリッドに送られた魂は精霊として実体のない社会を築き、ドームの人たちはグリッドにいる精霊と交信ができる

だとしたら、ドームにはどんな社会が築かれる?

罪がない社会というのはそもそも存在するのだろうか、

手法は二つあるかもしれない

一つが、超不自由な生活にすることで罪が起こりえない状況を作り出すこと、

もう一つが、罪を犯そうという考えさえも人間の思考回路から奪ってしまうということ

いや、両者は結局同じことを言っているのか?

精神的な自由と行動的な自由の違いだ

結局のところ、罪は自由から生まれるのか

いや、精神的な自由と行動的な自由は結構違うか

SF的に言うならば、前者はニコニコしながら自由を奪われる構図、後者はつまらなそうにしながら自由を奪われる構図だ

絵的に面白いには前者だろう

というか、後者は単なるディストピアなので、表現としては単調かもしれない、つまらなそうに不自由なのは何も象徴していない

前者だとしたら、やはり、人体改造、精神改造のある世界観だ

無痛の社会を実現するためには、罪と罰自体を排除することが必要で、そのためには精神的自由をはく奪することは必要

ということなのか?

精神的自由とは何だろうか、

欲望、自己顕示欲求、他人よりも優位にいたいという心、

そういうのは罪を生みそうだが、

ただ、楽しむ、感動する、そういうのは罪を生まない感情か?

つまり、罪を生む感情のみを排除した社会というのが、無痛の社会ということになるのではないだろうか、

では、罪を生む感情とはなんだ?

それは簡単に言えば欲望。さらに言えば、他人と干渉する欲望か?

続く

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