映画にはなんとなくしっくりくるプロポーションがあり、そこまで考えられている映画はなんとなくバランスが良く、違和感なく見ることができる気がする
起承転結、序破急、3幕構成、ミッドポイントなど、映画を物語的にバランスよくする考え方はいくつかあり、そういうのを理論的に分析するのも大切だ
ただ、そういう、映画に関するプロポーションの考え方は、曲においても同じようなことが言えるのでは? と思った
というのも、両者の考え方には似たところがある気がしたからだ
例えば、映画に終わった感を出すために、音楽で無理やり終わった感を出したり、登場人物が走って終わった感を出したり、抱き合って終わった感を出したり
というのは昔からよくやられる手法で、とってつけた感じではあるが、それは効果的だ
そして、曲にも同じようなことが言える気がする
1オクターブ下げてからの上げてみて終わった感を出したり、音の圧を足して終わった感を出したり、
曲の場合は僕が詳しくないのでそれくらいしかわからないが、とにかく、終わった感を出すためのテンプレ的表現がいくつもある
ただ、曲に関しての終わった感は、映画で行われている終わった感よりも多種多様な気がした
例えば、東京事変の「女の子は誰でも」という曲、
ラスサビだけ英語になり、テンポも落ちる
英語はともかく、テンポが落ちるのは単純に考えるならば盛り下がる演出なので、クライマックスにはふさわしくないように思えてくるが、実際の曲はとても良い感じに終わった感が出ている
つまり、終わらせるというのは何も、物量を増やせばよいという話ではないということだ
文字にすると当たり前なようだが、実際、映画でそういう終わり方をする作品はない気がする
クライマックスにそれっぽい音楽がかかるのも、登場人物たちが走ったりするのも、盛り上がる演出だ
それは少し短絡的過ぎる気がした
これは単なる備忘録でしかないので別に結論があるわけではないが、
ここに書いたことを意識し、女の子は誰でもと同じような一ひねりしたクライマックスを迎えるような脚本、映画を考えてみたい