僕は今24歳だが、お酒を飲んだことがない
数cc味見したことが2,3回あるくらいしかお酒を摂取したことがない
なぜなら僕はお酒が嫌いだから
お酒という存在が嫌いだ
理由は、お酒に渦巻いているすべてが嫌いだからだ
お酒を飲む集団は怖いし、お酒があふれる空間は不気味だし、
それについての心中を文字にしてみる
お酒を飲む場所が嫌な理由
もともと僕は、一人で静かな場所にいるのが好きな人間なので、その正反対。大勢でにぎやかな場所が嫌いになるのは容易に想像できる
ただ、かといって、同じく大勢の人がワイワイしている街中などは嫌いではない
ワイワイしている街中では、別に、僕が一人話していなくても何も思われないからだ
対して、飲み会は楽しく話すための場だ
そして僕はそういう場は嫌いだ。
話すのが好きじゃないし、そもそも話す能力もないし、だから飲み会という場にいたら僕は浮く
仲の良い仲間内と数人で行くとなると楽しく話せるのだが、そうでない限り、飲み会は嫌いだ
話すことが前提条件という条件が怖くて仕方がない。逃げ場がないからだ
飲み会という場がトラウマで、そんな嫌いな場だから話したくなくなる、だから飲み会が怖くなる。という悪循環に陥っている
そして、飲み会という場において、僕とそうでない人との違いはお酒が入っているか否かだ
いや、お酒が入っていなくてもよくしゃべる人は良くしゃべるが、ただ、お酒が入ったら基本、人はよくしゃべるようになる
つまり、お酒という飲み物によって人が大胆になる
そういう人間がわんさかいる飲み会という場が不気味で仕方がないので、それを招くお酒が嫌いだ
お酒があっても良いと思える例
お酒が嫌いな僕だが、かといって、お酒という存在自体が嫌いというわけでもないのかもしれない
例えば、お酒がある場でも、バーなどのおしゃれで静かな場所は嫌に思わない
その場は話すための場ではなく、雰囲気に浸るための場でもある気がするからだ
一人で静かにしていても違和感のない場所なので、居心地がよさそうだ
あとは、神事、祭事で飲まれるお酒も良いと思う
御奉謝みたいな雰囲気はやはり嫌いだが、そうではなく、もっと静かで神聖なお酒なら嫌には思わない
なので僕が嫌なのは、先に書いたような、お酒が招く状況なのかもしれない
先述したような理由で飲み会が怖いというのもあるし、自分がお酒を飲んでその空間に溶け込んでしまうことを考えると恐ろしいというのもある
自分がお酒を飲んだ場合の話
精神的なところから話すと、
僕は生き方で人に何かを伝えるのが好きな人間だ
自分の存在意義が、自分の生きざまを人に見せることで生まれる人への干渉だと思っている
だから、僕はそういう武勇伝だとか、エピソードをとても大切にしている
留年だって、これもまた一つの藤田将のエピソードだと思っていたのでショックには思わなかったし、
今も痛む顎関節症ですら、このような苦痛を僕という人間に課した運命に対して、いつか映像作品として訴えてやろうと、うずうずしている
そういうすべての動機は、自分という人間の行動や思想を具体的にすることに喜びを感じているからこそだ
なので、本心では、お酒は飲めないわけではない
ただ、僕の生き方として、お酒という存在に反抗するためにも、お酒を飲んだことがないというラベルは守りたい
そういう、精神的、思想的な事情があるので、お酒は嫌いだし、今後も飲まないだろう
あとは、身体的なところについても、お酒は飲むべきではないと思う
僕の父親も、お酒を飲んで2回、家から救急車で運ばれている
母親もなんだか心拍数が上がってしまう病気を先天的に持っているらしい
なので、家にお酒がある様子をほとんど見たことがない
今思えば、そういう家庭環境で育ったからこそ、そういうお酒という文化に対して抵抗があるのだろう
話を戻すと、
父親も母親もお酒に弱いので、僕も弱いだろう、
というだけのことだ
僕は水をたくさん飲んだだけでも震えてしまう人間なので、おそらく、お酒は飲まないほうがいい
酔った人を眺めるのは好きだったりする
お酒を数cc味見したことがあるが、そこまでおいしいとも思わなかった
おいしいと思わないのにあれを飲んで、いらぬことを話す人間になってしまうのであれば、それをそばから眺めているくらいがちょうどよい気がしている
そばで眺めるといっても、隣の席から眺めるのではない、5mくらい離れた位置から眺めるくらいだ
話は変わるが、僕は麻薬依存者の動画を見るのが結構好きだったりする
少し前に記事にした気がするが、その時は確か、フィラデルフィアのスラム街にあふれる麻薬依存者。ゾンビのような人々を車から撮影した動画について語った
別に、麻薬が好きなわけでもない。僕が好きなのは、麻薬などの薬物により現象と化した人間の動きだ
僕はシュルレアリスムが大好きで、それは映画やアニメの好みにも影響するくらいだ
キューブリック監督や北野監督のような、凄みのある画面にはこの、シュルレアリスム成分が含まれている気がする
シュルレアリスムはシュールと呼ばれている
この、シュールをかっこよく取り入れることで、凄みのある映画が生まれると思っている
シュールとは、一筋縄では理解できない要素全般のことを指している
その要素が映画の方向性を殺さないような感じで取り込まれていると、それは凄みとなり、作品として一つ上の段階に昇華する
魂の入った作品になっているような、そういう魅力が生まれる
というように、僕はシュールというジャンルが好きだし、それを自分でも作りたいと思っているし、人のシュールも観察していたい
そこで、路上で揺れる麻薬中毒者の動画だ
歩道でひまわりのように揺れている人間、どこから持ってきたのかよくわからない物体をつかんだまま動かない人間
その人間がなぜそうなるに至ったかを想像するのも楽しい
まるで、茹でられてぴんと真っすぐになった芋虫のような、
あるいは、無重力化で無意識に手足を大の字に広げているカエルのような、
そういう、長い歴史の中で生まれた共通項が無意識的に発現しているさまを見るのが楽しい
そこに至るということは、そこに至るための経緯があったということだ
その場においては、麻薬という存在により、理性が薄まり、経緯と結果が一直線で結ばれ、路上での結果となる
その様を想像しながら、推理しながら見れるので、興味深い
話を戻すと、
程度は違えど、お酒に酔って理性が弱まった人が何をするのか、興味がある
そこには人間の器だけがあって、鳴門海峡の渦潮のような現象として、肉体が動いて言葉を発している
それは、経緯が直接出力された光景だ
その光景は人を見ているというよりも、摩天楼を見ているときの楽しみに近い気もする
経緯の繰り返しで形成されたビル街を眺めるのと同じように、その人の人生の歩みと数万年の人類の歩みがその人の振る舞いに表れているんだなと思うと、とても興味深い
とはいえ、お酒という文化は嫌いだ
なので、唾が飛んだり、匂いが漂ってきたり、話しかけられたりしないくらいの距離。5mくらいの距離でその様子を観察してみたい
余談
お酒が嫌いな気持ちは裏返すと、イエメンが好きな気持ちにつながる
僕はイエメンという国が好きだが、その理由の一つに、お酒が無いからという点が挙げられる
イエメンは厳格なイスラム教らしく、お酒を国内に持ち込むことすらできないらしい
ここまでの話を踏まえたうえでそのことを考えると、もはやイエメンは天国のようだ
今、国内では紛争が続いているようなのでそういうことは一概には言えないが、
ただ、お酒がないという環境はそれだけで人生を過ごすうえでの理想郷なのでは、とも思える
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